篠原信氏の「科学の五段階法」という考え方には、深く共感する。観察、推論、仮説、検証、考察というこのプロセスは、科学に限らず、人生そのものの営みにも通じているように思う。篠原氏は、子どもたちが生まれながらに備えているこの力を、私たち大人が「教えること」によって奪ってしまっているのではないかと指摘する。その言葉には、教育に携わる者として身につまされる思いがある。
確かに、私たちは「正解を教える」ことに慣れすぎている。学校でも家庭でも、子どもが疑問を投げかけたとき、「それはこういうものだよ」と即答してしまう。効率的ではあるが、同時に思考の芽を摘んでしまう行為でもある。篠原氏が言うように、「教える」ことで子どもは試行錯誤をやめ、考える前に答えを探すようになる。知らないことに耐えられず、「調べればわかる」で済ませてしまう。だが、「わからないこと」と向き合う時間こそが、思考の筋肉を鍛えるのだと思う。
私自身、若者と接していて感じるのは、「間違えることへの恐れ」が年々強くなっていることだ。間違わないように発言を控え、失敗しないように行動を抑える。だが、科学の五段階法の本質は、まさに「失敗の中で考え続ける」ことにある。観察し、推論し、仮説を立て、検証して失敗する。その結果を考察して、もう一度観察に戻る。このプロセスの中に、学びの核がある。
篠原氏は、子どもたちに「不思議を楽しむ」力を持ち続けてほしいと言う。私はその通りだと思うが、同時に「不思議を許す社会」でなければならないとも感じる。成果を急ぐあまり、「理由をすぐ説明せよ」「答えを出せ」と迫る社会では、不思議を楽しむ余裕など生まれない。教育現場でも、探究よりも評価が優先されることがある。しかし、「なぜ?」と首をかしげる時間こそ、創造の源泉であるはずだ。
科学の五段階法は、単に科学的思考の枠組みではない。未知に立ち向かうための「生き方の技法」だと思う。目の前の現象をよく観察し、自分なりに考え、仮説を立てて行動する。そして結果を受け止め、再び考え直す。この循環を回せる人は、どんな時代にも柔軟に対応できる。AIがどれほど発達しても、このプロセスだけは人間にしかできない。
子どもたちにこの力を残すために、私たち大人がすべきことはただ一つ。「よく気づいたね」と言い、共に首をかしげることだろう。知識を教えるよりも、共に不思議がること。その積み重ねが、子どもたちの中に科学の五段階法を息づかせる。
篠原氏の言葉を借りれば、「不思議を楽しむこと」。それを大人が忘れない限り、教育も社会も、もう少しだけ希望のあるものになるのではないかと思う。
